宗教とエロス
宗教とエロス
ずっと欲しいと思っていた。何度も冒頭を立ち読みして、本の厚さに惚れ、恐れ、未だ手にしていない。
価格の問題ではないの。
わたしは読む必要がないと感じたから。
読まなくたって筆者の言わんとしている事、すべて感じる。ような気がしている。
あるいは、読み進めて行くと筆者とわたしが喧嘩してしまうかもしれない事を恐れている。
今となっては空飛ぶスパゲティモンスター教、エトセトラ、そんな「宗教」と、簡単に手に入ってしまう卑猥なつくりもの、映像、エロ漫画。
どちらも現代は溢れかえってしまって面白くない。
わたしはどちらもフィクションとして捉えている。そしてフィクションはいかに造られているのか、構造を知りたいと思う。
劣情をそそるもの、受け手の飢えに当てはまるようなものを観客は欲しがる。
フィクションは大衆の欲望から出来ているのである。
美しいもの、汚いもの、どんぞこ、耳に痛いノイズ、快楽、飢え、すべてを知りたかった。
今は死にたいという感情がすべてを抑圧し、生きている感覚を、脳味噌を、捨ててしまいたい。
なにかを残したいなんて人並みに思う。
死にたいくせに人と話したい。
この本のことも。だけど、人と話すには言葉を覚えなきゃならない。本を読まないとこの話は他人とは出来ない。
わたしだけが持っている。知っている。
なにも表現できないことがもどかしくある。
わたしの本棚にはやたらと幸福論、人生論、純文学が並んでいる。
普通なんて言葉使いたくないけれど、普通の人生歩んでいたら読書なんて娯楽。
わたしは仕事を覚えるように読書をしていた。生きるために。生きるということがとても難しく、白い光を想像しては、かみさま、と心でつぶやいていた。
他者と交わるエロス、簡単に言えばセックスは時に孤独になる。感じるのは身体の快楽、脳はエロスに溶けることがない。
それはなんだか人と話すことと似ている。
わたしはわたしだけの世界があったのだと思う。
精神科の先生に本当の自分なんて無いなんて言われてしまったけれど、一生懸命ひとりだけの世界を作ってきた。今までどうして忘れていたんだか、きっと労働のせいよ。
ひとりっきりで草原に立って深呼吸する、そんな場面を想像すると脳が溶ける。空気と溶け込みたい。これがわたしの欲望。
エロスなんて型にはまって考えてしまうと、なんにも面白くないね。