顔の話

昔の私は重度の醜形恐怖症だった。

鏡を見て思うことは「これは人間の顔なのか」「街を歩けるのだろうか」ばかり思っていた。

目の形や顔のパーツを変えたいと思う段階にすら至らなかった。

 

顔で笑いを取れる芸人が羨ましかった。私は「笑えないブス」だと思っていたし笑いを取れる顔というのは何だかんだ愛嬌があったり人を笑顔にする魅力があるから成り立つものだと思うからだ。

 

親に外見を褒められた記憶がない。親戚からは小さい頃よく「可愛い可愛い自慢してた」なんて話はよく聞いていたがそれは「(私の思い通りになる所有物としての)可愛い」だと理解していた。

話が出来るようになるとすぐ「屁理屈言うな」「素直じゃない」「可愛く産んであげられなくてごめんね(嫌味ったらしい口調)」などのことを聞き飽きるほど言われた。

 

想像の話

私はブスだと悩む女の子がいるとする。

その子は親に「可愛い可愛い」と育てられ、社会に出て男性からのウケだったり外からの反応で「ブスだ」と自覚し悩むだろう。

 

私はどうだ、社会で男性に「可愛いね〜」と言われようが(あっ社交辞令)と思ったり(穴モテか)と「可愛い」を素直に受け取ることが出来ず損をする。

まあ、分かっていながらそれでも嬉しかった時もあった、確かにあったのだけど。

 

極端な話、顔のパーツで悩むなら化粧がある、整形もある。それで幸せになれるなら肯定する。

私の問題はパーツを変えたところで幸せにはなれないのだ。

化粧に興味を持ったのも最近のことだ。

少しずつだが目に見えないところで私も幸せへと向かっている、たぶん。

 

それぞれの地獄がある、って宇垣ちゃんも言ってたし、それは本当にある。

あんまり言いたくないけれど妬まれるのが大嫌いだ。妬んで私を攻撃する程なら変わってやりたいよ。私の心は地獄だよ。心まで持って行ってくれるなら変わってあげますよ。

 

顔のコンディション悪くても外を歩けるくらいの自己肯定感は生まれてからずっと欲しかったよ。

見た目なんかのコンプレックス持ってるからといってバイトすらしない奴はやっぱり「社会不適合者」扱いだし「ダメな奴」の目で見られることも分かってる。

私は「仕事に行かなきゃ周りに迷惑かけてしまう」の死ぬほどの不安感と「こんな見た目で他人に不快感を与えないか」の二重の死ぬほどのストレスを抱えて今まで頑張って来た。

全員に分かって欲しいなんてどだい不可能なことも理解している。

だけどこれだけは自分を褒めたい。

今やっとちょっとだけ楽になったのは死ぬほどの毎日を続けてきて鬱とか諸々病気になって身体はボロボロになって、やっと周りに心配されるようになったからだ。

これを努力とは死んでも呼びたくない。

これが努力なら努力なんてしないべきだ。死に急いでいるのと同じだ。

死んだら同情する民衆は死にそうな人に対してめちゃくちゃ厳しいの知ってる。

SOS出しても「あー、かまってちゃん」「言えるんなら甘え」「みんな辛い」最早そっかーって流したくなるほど馬鹿な回答ばっかりだもん。

 

終わり良ければ全て良しって言葉もあまり好きではなくって、過程があるから終わりがあるのよ。長い長い苦痛を味わって終わりだけ良くったって、その終わりの幸せは長い苦痛と引き換えになる程の素敵なものなのだろうか?

結局は他人のモノサシで測られた「良し」なのだろう。

全然良くないからな。

貪欲に今までの分チャラに思えるほどの幸せがないと死ぬまで理不尽な世の中だって嘆くからな。