少女性について 雑記

なりたかったものがあった。

見た目は少女でありながら文豪のような威厳を持つ老紳士。ウェリントンの眼鏡と紙タバコが似合い、原稿用紙に殴り書きと落書きをする。

生きる純文学になりたかった。

 

素敵だと思う何もかもを、ちぐはぐだと分かっていながらも融合させてすべて欲しがった。現実の年齢、社会的地位なんか何の意味も持たないような存在になりたかった。

現実はそう上手くも行かない。いつもそうだ。私はただ酒を飲めば寝るだけ、煙草が辞められず、求めてもいなかった26歳になった。

身体はオンボロで、少しの労働と日々の生活で手一杯、パチ屋に行ってはギャンブラーの真似事。中途半端にクズになり、中途半端に働く女性のふりをしている。

ものを書くことも久しい。

 

「私が存在しない世界 というものは存在しない」この一文は悲観的だ。終わりたくても終わりのない人生のつらさは物語としても完結しない。

この期に及んで尚人生をやり直したいと思っているのかも知らない。

「少女性を欲する私」はつまり未成熟を肯定したいのであろう。

「そのままでいい」なんて価値観が欲しいのでなくて、未成熟ということには希望が包まれている。無知の知のようなもので、知らないこと、これから知ること、手に入れるものがあるやも知れないという希望をわずかながら感じることができる。

誰かに肯定されるでもなく、ただ、自身の未成熟を赦したいだけ。自己肯定感、承認欲求、何遍も見、聞き、記し、ちょっと擦れた。その単語では足りない。

何が欲しい?どんな人になりたい?手放せるすべての生まれ持ったものを捨てられたらどんなになる?

願望さえも目に見えないものばかりだ。

あるいは貪欲であるから現状に満足しないのだ。

さあ、どうする。

余生であろうが追い求めてみようか。

いつまでも物思いに耽っていようか。誰かの遺した憂鬱に、私の纏うなまぐさい感情に。